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実は日本の医療は先進国で最低だ









せっかく資格をとっても、採用してくれる会社がなければ働けない。京都大学を卒業したのが逆にハンディになったのだ。その為、自営以外に生きる道はなかったのだ。
その頃、私もアルバイトに疲れていた。やる仕事はことごとく下働きで給料も安く一日一食食べれば良いと諦めていた。お金は全く無かった。









初めてアパートの管理人になり管理室で塾を始めた。当然最初は二人か三人しか集まらなかった。それでも、家賃を一日で14万円ほど預かった時、生まれて初めての大金で怖かったことを今でも覚えている。
当初は苦しかった。アパートに電話があると生徒に課題を与えた。











「山下くんはこの10の単語を覚えよう」「田中くんはさっきの数学をもう一度自分で解いてみよう」
課題を与えて、電話を取り住人を呼び出した。携帯のない時代である。電話の取次は管理人の仕事であった。










管理人手当を一月に2万円ほどもらい、ようやく何とか生きていけると感じたのは三〇歳になってからだ。塾の電話はアパート共通だった。ようやく一〇人ほど生徒が集まり自分の電話。つまり塾の電話を買えた時は、その電話を抱きしめ「やっと一人前になった」と抱きしめたのは今でも忘れられない思い出である。










要するに当時の私はホームレスギリギリだったのだ。
やがて生徒が増えると、アパートの住人が出てもその後人を入れず、次々と教室に変え、一階は全て塾に変わった。父にはまとまった家賃を収めて、納期は必ず守った。とは言え、うっかり一日遅れると留守番電話に父の厳しい声が残っていた。









「今日は家賃が入っていなかった。どうしたのだ」
勿論、私は直ちに電話を入れてうっかり一日伸びた詫びを入れなければならなかった。
それでもこの日本で何とか生きていけると初めて思い始めた。何しろ、せっかく資格をとってもどの企業も雇ってくれないのだ。生きる道を絶たれたと本気で思っていた。









正直私は勉強などしたくはなかった。したいとすればラジオやテレビだけだった。大学へ行ったのは母の願いだったようなものだ。
母は常に私に言っていた。
「お母ちゃんは勉強できなくて辛い思いをしていたし、お父ちゃんから馬鹿にされる。あんたが頑張ってくれないとお母ちゃんの立場がないわ」











「なんで僕ばかりに言うの。どうして〇〇兄ちゃんには言わないの」
「あの子は勉強嫌いやないの。あんたは茨木高校に行ける力があったじゃないの」
母は勉強を高校時代にすっかりしなくしていた私を無理やり勉強させたかったのだった。










]尤も,京都大学に合格した時に、親戚中に自慢の電話をしていたが私には
「〇〇兄ちゃんを尊敬してあげてよ。お兄ちゃんなのだから」
と私に言うことは忘れなかった。母にとって私は見栄の材料でしかなかったのだ。母にとって常に可愛いのは次兄と妹だけで、私は母の愛を感じたことは一度もなかった。












物心ついてからずっとである。父を好きになれなかった母は父に似た私を好きになれなかったのだ。それはあらゆる場面で感じていたし、私が敢えて告白するのは、同じような人に激励したかったからで、多くの読者にとってはつまらないかもしれない。ここでお詫びしたい。私の当時に話題を戻したい。










三十五歳になると友人がことごとく結婚し、一緒に酒を飲む機会も減った。結婚はやはり男の別れの時なんだと痛感し、自分も結婚しようとあらゆるサークルに入った。しかし、結婚は困難な結果になった。一度、かなり私の好みの女性と仲良くなりかけたのだが、先方の親の反対があった。









「一人で塾を経営して病気にでもなればどうするのだ」
当時は女性は結婚すると主婦になった。やはり大企業の会社員や公務員は安定しており圧倒的に持てた。
その時、フイリピン人を結婚相手にしようとする人を旅で見つけその人には説得力があった。










「私は四十歳だ。日本の女性は相手にしてくれない、アィリピン女性と結婚することにした」
私も塾の講師で安定していない、同じことをしようかと考えた。英語が話せるので機会はある筈だ。何しろ、以前は向こうから飲みに誘ってくれた友人も私が誘っても
「今日は妻と約束がある」と断られると誘えなくなる、日本人女性は結局先方の親が反対する。持てないことは自覚しなければならない。











尤もフイリピン女性と結婚するとしても簡単ではない。二度も三度も振られている。しかし努力はいつか報われる。やがて妻と知り合いようやく結婚できたのが私か゜三十八歳のときだった、
フィリッピン人との結婚は大変複雑だった、あらゆる手続きを少しでも間違うと妻を一度はフィリピンに返さなくてはならなくなる。










絶対にミスがないように結婚の手続きを茨木市役所、フイリピン領事館、イミグレーション、すなわち入国管理局に行き何度も何度も確かめて塾の仕事もするのて大変だった。
でも私は嬉しかった。自分も好きになり。相手からも好きになられたのは生まれて初めての経験だった。家庭の愛を知らない私にとって人生で正に初めてだったのだ。









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良い人だと思います。只、私は自分のブログで精一杯で読めないのが残念です。
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【岡田有希子の謎】予知夢・超能力
◎予知夢・超能力とは…?また彗星のごとく
現れこの世を去った岡田有希子の謎に迫る!!








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こちらはいまガンで苦しんて゛おられる方には私の今のブログより役に立つでしょう。私のこのブログは若い人の為に役に立つと思うことを何でも書いていますが、今紹介したブログはガンだけに特化しています

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64歳でガンになりました。その偽らざる経験を知って頂きたいのです。

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