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実は日本の医療は先進国で最低だ







前述のように父は私の全てを奪い去った。あの時、完成間近だった私の三球ラジオはなったのだろうか。見届けられなかったのは今持って残念である。そして高校入試では茨木高校どころか春日丘高校の入試にも不合格になってしまった。春日丘高校の入試でも以前に書いたが父の私の意志を全く無視した父のために不合格になってしまった。












バカ高校で三年間劣等感を持って過ごした。ラジオはやはり触れなかった。もし触っていたら
父が
「そんなことをしているから入試に落ちたのだ」
と全てを捨てただろう。ラジオの勉強は大学に入るまで出来そうになかった。
父は私の青春の全てを奪ったのだった。正直に言おう。








私は当時思い切り犯罪を起こし、中野家に仕返しをしたいとさえ思った。心の中だけではあるが大量殺人を犯し父と中野家に復讐したいとさえ思った。勿論実践はしなかった。私に関係ない人を殺すことは出来ない
見知らぬ人間を殺すなどとても私には出来なかった。空想だけの世界である。











私は宗教に助けを求めた。当時、熱心に教会に通った。しかし、協会の以前からの知り合いも
「えーどこの高校に入ったの。聞いたことのない高校だね」
あの時、ラジオを禁止さえされなければ茨木高校にきっと行けていただろう。そんな悔しさは常にあった。







バカ高校から帰ると、高校の駐車場の前に私が落ちた春日丘高校があった。フォークダンスをしていた。羨ましかった。家に帰ると 
茨木高校からフォークダンスの音楽が聞こえていた。父は無神経に私に言った。









「お前は金のかかる私立高校に行った。小遣いは中学生の時のままだ。自分が馬鹿なことを自覚して二度とお父ちゃんに逆らうな」
正直、父を殺したかった。心の中だけで叫んでいた。
「ラジオを取り上げたのは誰なんだ。あれさえなければ茨木高校に行けた筈だ。私の人生を奪ってまだ足りないのか」










私はこの家に生まれた不運を嘆いていた。
ずっと後のことだが、東大寺高校の生徒が自分の父親を殺した事件があった。私は大人になってからのことだったが。父親を殺した子供の心を私は理解出来た。私は父親を殺さなかったのは勇気がなかっただけだ。子供は親を選ぶことが出来ないのだ。私は自分の父親が桃山君でなかったことを残念に思うことしか出来なかった。
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実は日本の医療は先進国で最低だ








しかし、問題もあったのだ。学校の勉強には全く興味がなかったので、学校の成績は悪かった。ずっと前に書いたのだが、中学一年の英語の二学期の期末テストが三十八点しかなかったのだ。
当時は、私の通った茨木市の養精中学では、二年生になる時に、英語と数学の授業が能力別に編成されていた。三クラスで英語と数学がABCの三クラスに分けられるのであった。












三十八点では、Aは、絶対無理であることは私にもわかっていた。我が家では、兄弟の全員が英語も数学もAだったのだ。私が初めてA組に行けなくなる。三学期には相当頑張らなくてはならない。勉強嫌いの私も、さすがにそれは避けたかった。冬休みには英語の教科書ガイドを父に与えられた。父は厳しく私に言った。










「どうせ、今まで、全く勉強しなかったのだろう。虎の巻で良く復習して、予習もしておけ」
当時には、今で言う教科書ガイドを虎の巻と呼んでいた。
私はラジオの勉強はしつつ、虎の巻も勉強し始めた。単語を覚える為に、何度も何度も書いて覚えた。数学も勉強し始めた。時間はないのだ。













三学期に余程の成績を取らなければ我が家で初めてA組に行けなくなる。それは恥ずかしいことだった。英語の授業には真剣に先生の話を聞くようにしていた。数学も授業を真剣に聞き始めた。とりわけ英語は分からなくなれば過去の解説を読み返し、確かに相当頑張った。しかし、その為に、ラジオの勉強の手を抜くことはなかった。








私には夢が出来た。いつか自分で設計図を書いて世界でただ一つのラジオを作りたい。何でも良い。例えそれ程優秀でなくとも、自分で設計をして唯一無二のラジオを作りたかったのだ。当然にその為には勉強しなければならない。理論は難しかった。良く分からない公式も覚え始めた。
当時には、自分で気が付かなかったのだが、確かに学校の授業の理解力が増してきていたのだ。
今考えると当然だ。学校の勉強よりも難しい勉強を始めたのだ。











全部理解できたわけで゜はないがとても難しいのだ。それを勉強していると学校の勉強が易しく見えたのだ。
そんな難しい勉強をしていると学校の勉強が簡単に理解できるようになった。理科など授業を聞いてるだけで成績が急速に伸び三学期の最後の学力テストでは730人中で実に29番になった。










担任の先生は
「この成績なら間違いなく茨木高校に合格出来る」
と断言してくれた。
憧れの茨木高校に進学できる。しかし、家でその事を言ったことが大失敗だった。









大人になってからその理由も分かり始めた。塾で生徒の指導をする内に、理解力がある生徒と理解力がない生徒の違いを見るにつけ、徐々に確信し始めた。
学校の教科書は生徒の平均的な学力を想定して書かれているものだろう。難しいラジオや電気の勉強をする内に、理解力が増してきたのだったのだろう。










確かに中学一年生の二学期の終わり頃から、教師の説明が私にとって容易になってきたのだ。とりわけ、英語や理科の授業は楽しみになってきた。英語の三学期の学年末テストでは九十六点で、クラスで二番になったのだ。
偶然、銀行で英語の先生と会った。先生も私を見つけて話しかけてくれた。










「中野君、随分頑張ったね。君は九十六点で二番やったで。最高は上野君で九十八点やった」
私は気になっていたことを尋ねた。
「先生、二年の英語の授業でA組に入れるでしょうか?」
先生は答えてくれた。











「最終的には、英語の先生の合同会で決まるけれども、多分、大丈夫だろう」
それを聞いてほっと安心した。「良かった。安心した」心の中だけでそう呟いた。
中学二年生になった。幸い英語の授業ではA組に入ったのだ。数学はその年から、能力別授業を廃止したのだった。その頃から、学校の授業の全てが易しく思えてきた。










当時の私はラジオと電気の勉強を第一にしていた。難しかったが、そういう難しい勉強に取り組んでいると、学校の授業が分かり易くなってきたのだ。確かに、今でも覚えている。交流電気が流れている時に、コイルを流れるリアクタンスが二πflであり、コンデンサーを流れる時には、二πfc分の一になる。
だからその原理を利用して、二π√lc分の一の波長の電気を通すのだ。これが同調する原理である。理由も何も分からないままに、挑戦していたのだ。











学校の理科も全然関係なかったのだが、日頃難しいものに挑戦したからであろう。予習も復習もせずに授業だけ聞いていて九十点以上取り始めていた。当時は自分でも理由が分からなかった。
「何か、自分でも不思議な位分かり易くなってきた」
そう思い始めたのだった。










 中学二年になると、全科目のテストの結果が上がっていたのだ。自分でも不思議だった。常に中位以下だった私の成績が不思議に上がっていったのだ。
中学二年の最後の実力テストでは、七百二十人の学年で、二十九番、男だけで二十二番の成績だった。今でもはっきりと覚えている。当時、仲良くなり出した塚君と成績をお互いに見せ合った。塚君は私より良くて、十二番で男の中では十位だったと記憶している。塚君には負けはしたが、私にとっては予想外の好成績だった。











「茨木高校に合格できると先生が言ってくれた」
私の人生で最大のミスだった。父が期待しだしたのだ。父は子供の成績が悪いことを悔しがっていた。自分は大阪帝国大学を現役で合格したのだ。自分の子供も帝国大学に合格してほしいと思っていた。










ある日、いつものように私はラジオの制作にあたっていた。材料は全部買いそろえていた。三球の真空管ラジオの制作にあたっていた。突然、父が私の部屋に入ってきた。父は私に厳しく言った。
「中学三年生やんか。これから受験勉強が必要やろ。つまらないことをしてどうするんや。これからラジオを触っているのを見ると、全部捨てるから覚悟せえ」










それから、例によって父の自慢話が延々と続いた。
「お父ちゃんは、誰もが医学部を目指している時に……」
いつもの聞き飽きた話だった。
私はすっかり諦めた。大事なお小遣いの殆どを費やしたラジオの制作は出来なくなってしまったのだ。












父は言ったことは必ず実行する人だ。私は作りかけたラジオの材料も雑誌の「ラジオの制作」も全てを私の部屋にある押し入れの中にしまい込んだ。その頃の私の全てが終わった一瞬だった。
本当に何もかも失ったのだった。自分が打ち込めるものをなくした瞬間だった。










家庭での違和感を忘れさせてくれる貴重な時間が二度と得られなくなってしまうのだ。少なくとも、当時の私には生き甲斐の全てがなくなってしまったのだった。
そしてただ一つの趣味と生き涯をなくし三年の成績も下がり始めた。予習や復習をしても理解することが難しくなったのだ。父は私の全てを取り上げたのだった。











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その頃は、おそらく私の寝る部屋が父とは別だったのだろう。寝ている時に父の往診で起こされることは無くなっていた。当時には祖母が既に死んでいた。祖母が死んだのは私が小学校の六年生の時だった。私が祖母と話した記憶はそれほどなくて。祖母が死んだ事実も特別な感情も持たなかった。むしろ、父の姉がお葬式で泣いていたのが私にとって不思議であった。







冷たいと言われるかもしれないが、本当に何の感情も起きなかったのだ。だから、父の姉、つまり私の叔母が泣いている理由さえ分からなかった。

祖母の部屋が空いて私の父と同じ部屋で寝なくなったのだろう。ともかく、父はその頃も深夜に電話があれば往診に行っていた筈であったのだが、私には何の記憶もなくなっていた。








]それ故、父と一緒に寝なくなっていたのだろう。その頃、私の個室が与えられていた。それは我が家の一番端っこであったが、私の自室に閉じ込める有難い部屋だった。

私は自室にとじ込まると、ラジオの制作に取り掛かり、また、ラジオや電気の勉強に熱中していたのだ。父は例え私が勉強中でも、一切気にすることなく私に買い物を命じることはしょっちゅうあった。










予期していた買い物を命じられた時には、私は一瞬喜んだものだった。正に、ラジオの勉強をしていた時に父が階下から私を読んだ。

「おい、治男、乾電池が切れたから、電池を買ってきてくれ」

私はかねてから用意していた電池を取り出した。







「お父ちゃん、僕持ってるよ。この前、日本橋に行った時、ついでに買うておいたから」

私は父が喜ぶものと確信していたのだが、父の反応は私の予想を裏切ったものだった。

「お前はこれを幾らで買うたんや」







聞かれたので私は素直に答えた。

「二十五円で買おた」

父は寸座に答えた。

「そしたら二個やから五十円でええな」







交通費も手間賃もくれなかった。それでも、私は父が安く買えて喜んでくれただろうと自分なりに満足していたが、小さい声で母に言った言葉が衝撃的だった。

「ずるい奴や」

私に言ったわけではない。母に言ったのだ。その意味は今もって分からない。








私に言われた言葉でないので聞こえないふりをしたのだが、実に不思議だった。どうしてずるいのだろうか? 私はわざわざ安い電池を父の為に余分に買っていたのだ。儲ける気持ちもなかった。父が喜んでくれるだろうと信じていたのだった。







私が同じ立場なら、

「用意が良いな。有難う。安くなって良かったなあ」

 間違いなく自分の娘に言っていただろう。

 そう言えば、父は電池を入れると、きちんとつくか確かめていた。







父は私が使い古した電池を売ろうとしていたと思ったのだろうか。今もってわからない。私には解けない謎である。しかし「ずるい奴や」と言うことは、間違いなく使い古した電池を売りつけようと思っていたのだろう。父は私を悪の塊だと思っていたのだろうか。








恐らく父なら、命じられて初めて動いていたのだろう。自分の子供の時代には命じられること以外はしてはならないと思っていたのだろうか。

なぞは解けないまま、時間は経過していた。なぜずるいのか、訪ねる機会もなかった。無理に聞いても、答えてはくれなかっただろう。誰にも言えない秘かな心の傷となって、七十を超えた今でも、私は傷ついたままであり、只父との心の割れ目として、今も鮮明に残っている。







しかし、その事実も時を経て忘れようとするものだ。只、その時以来、日本橋に電気のセットを買いに行っても、決して自分の必要とする電池以外買わなくなった。どうして、父の為に安い電池を買い集めて、後で罵られる必要があるだろうか。私は日本橋に行った時には、私の必要品しか買わないようになったのだった。







当時の私は嫌なことを早く忘れて、自分の勉強に勤めるようにした。

私は自分の時間の大部分をラジオの勉強に費やしていた。不思議だった。自分の作ったラジオには電気がいらない。電波の力だけでイヤホンが鳴らせるのだ。電波の勉強も始めた。初めて出来た趣味だった。いわば初めて生きがいが出来たのだった。







只、不思議なことに趣味ができると成績が上がるのだった。それまで中位下だったのに、成績が上がるのだった。

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実は日本の医療は先進国で最低だ







なぜこの手記が必要か、話を私のその後の人生の戻してみたい。私の小学校の六年までのことを書き終えた。私にとって、桃山君のお父さんこそ私の理想の家庭であり、完全無欠の父親何か全く必要なかった。






それまでも、叔父の家に同い年の可愛いいとこに会う為に、叔父の家にもしばしば行ったものだった。そこでも、私の家庭とかなりの相違はあるものの、違和感までは抱かなかった。叔父の家でも、いとこが自分のお父さんに、
「ちょっとそれ取って」
と言う会話を聞いたことはなかった。要するに、我が家ほど厳しくなかったが、気づくほどの違いはなかった。







それだけに桃山君の家庭では、強い違和感、しかし、私にとっては思いもしないあこがれの家庭であったのだ。ちなみに私自身は桃山君の家庭を目指した。今でも、私の娘たちは誰でも、
「ちょっと、パパそれ取って」
と、気軽にものを頼んできたし。私もそれに何の抵抗もなく答えてきたと思っている。







私はやがて、そうして中学校に進むことになった。幸い中学校では給食がなく、母の手作り弁当だった。中学校に進んで一番喜んだことはあの苦手な給食から解放されたことであった。少しは学校もそれ程の苦ではなくなってきた。多少は友達とも話が出来るようになってきた。






その友達の中に小野君と言う生徒がいた。その友達は自分の手で完全なラジオを作っていたのだ。私は驚いた。ラジオなどは製品を買うものだと思い込んでいたからである。小野君は得意げに私に言った。
「完成するまでほぼ一年かかった。それでも、完成品を買うよりずっと安く済んだよ」
私は興味を掻き立てられた。当時からケチな私である。







「勉強すればこんな良いラジオを自分で作れるのか」
 その日、その瞬間に私には趣味が出来たのだった。
 私の小遣いは当時いくらもらっていたのかまではとても覚えていない。しかし、前述したように多くはなかった.それでも金の使い道も知らないままに、私はお小遣いの大部分を貯金していた。貯金していたのは使い道を知らなかっただけである。私はお菓子もそれ程好きではなかったので、自然に貯金をしていただけであったのだ。









しかし、小野君は私の人生を大きく変えた人であった。私に始めての趣味が出来たのだ。私は小野君を目指した。当時、
「ラジオの制作」と言う雑誌があったのだが、私は迷うことなくそれを買い読み始めた。何から手を付けて良いか分からなかった。小野君は材料を買う為に大阪市内の日本橋と言う駅までの道のりに同行もしてくれていた。何と当時は電気店の卸が連なっていた。









四十円の単一乾電池を二十五円で売っていた。何という好機であることか。私は当時よく父に命じられていた。
「おい、治男、電池が切れたから買って来い」
父がケチなことを知っていた。私は父を喜ばせる為に必要はなかったのだが、父の為に四個ほどの電池を買い、同時にはんだ付けのセットと鉱石ラジオの制作セットを買った。








私の孤独で辛い逃げ場のない家庭からようやく私の趣味が出来たのだった。鉱石ラジオの制作に没頭した。私にも趣味が出来たのだった。家庭からの逃げ場が出来たのだった。
何日かかったのだろうか。それは全く覚えていない。しかし、自分が作ったラジオから音が出てきた時には驚く程喜んだ。私は自分で出来ることを初めて発見したのだった。










鉱石ラジオとは電気を使わずに電波の力だけでイヤホンを鳴らすものだった。さすがにスピーカーを鳴らす力はなくて、イヤホンを鳴らすだけであった。但し、そこから流れる音は私の心を癒したものだった。連日、私はイヤホンから出てくる音楽を聴きながら自然に寝るようになった。







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私にとって父も母も存在しないのだ。確かに子育てが大変なことは知っている。私が生まれた時には、時には寝ないで看病してくれたこともあっただろう。個人塾の経営者であり、講師である私は普通の男性以上に子育ての辛さを知っている。なぜなら、普段から家におり、家事も相当部分を手助けしていたからである。







はっきり言って、殆どの男性は子育ての大変さを知らない。何時も可愛い面しか知らないのが普通である。しかし、時には我が子であると知りつつも、
「こんなに手のかかるものはいらない」
そう思うことすらあるのだ。本当に生まれた時から、二歳か三歳になるまではどれ程大変かは、良く分かっている。しかし、それは知りつつも尚、私は自分に言い続けるのだ。












私には父も母もいない。私の家族は父であるこの家族だけなのである。
ここまで、私の幼少期について書き続けてきた。私は本当に私の実家に迫害され続けたのだ。私には父も母もいないと言う気持ちも少しは理解して頂けただろうか。












私は幼少期には、ほかの児童との接し方が分からずに育ってきた。理由は次兄が私が外へ行こうとすると、家に追い返していたからであることは前述したとおりである、しかし、小学校の六年頃からは、ようやく友達との付き合い方も自分かなりに分かってきた。









小学校の六年の時だったと思う。私は同級生の桃山君と言う友達の家に遊びに行った。桃山君には二歳ほどの年下の妹がいた。私が遊びに行った時に、桃山君と妹とそして桃山君のお父さんもいた。お父さんがなぜいたのか今になれば不思議である。夜勤だったのかもしれない。主夫だったのかもしれない。二回か三回だったと思うが、常に妹とお父さんがいた。













当時の私は理由も何も分からなかった。私の父も自分の家で開業医をしており、普通に家にいたからそれについては何の違和感もなかったのだ。しかし、環境は全く違った。
桃山君やその妹が平気でお父さんに頼んでいたのだ。
「お父ちゃん、そのお箸取って」
私は心の底から驚いた。我が家と全く違うのだ。















私の家で父に対して、誰一人、
「お父ちゃん、そのお箸取って」
などと言うものはいなかった。もしも、言えば、
「お前は親を使う気か」
顔の形が変わるほどぶん殴られていたことは確実であった。そして、それが分かっているから誰一人そんな頼みごとをする者もいなかった。













桃山君のお父さんは気軽にそれを取ると、「はいよ」と渡していた。
驚くことは更にあった。四人で百人一首をしたりトランプ競技をしたのだが、いつも私がトップだった。私は厳しい我が家で、それなりに鍛えられていたのだろう。桃山君は自分のお父さんに自然に言ったのだ。
「お父ちゃん弱いな。子供に負けてあかんやんか」
桃山君のお父さんは笑いながら答えた。
「ほんまや。中野君は強いなあ」










私の父は負けを一切認めない。桃山君はこんなに何でも許しあえるのか。私は心から本当に素直に思ったのだ。
「この家に生まれたかった」
多分、世の中の多くの人は金持ちに生まれた子供は幸福だと思うだろう。しかし、真実はそうではない。子供にとって何より大切なものは親の愛である。











恐らく世の中の九十五パーセントの人達は親の愛を感じながら育つだろう。そして、その人達の殆ど誰もが親の愛を感じてどの子も育つものと信じているのだろう。
だから、親の悪口を言うと、
「そんな親不孝なことを言うな」
そう諫めるものなのだ。しかし、親の愛を感じることが出来ないまま大人になったものは私を含めて、確実に五パーセントほどはいるのである。








理由なき殺人、幼児を暗殺する、その他信じられない程の悪い人がいる。私が調べた限りもその誰もが親の愛を感じないで成長したのだ。これは知られていない大問題である。家庭は外からは見えない。私はこれまで何度も、
「良い家に生まれて良かったね」
とか、
「羨ましいね。君はリッチな家で育って良かったね」
とか、言われ続けて育ってきたのだ。誰一人孤独だった私の胸の内を知らないのだ。











「ガンの会」がある。ガン対策にお互いに助け合って知恵を出し合う仲間の会である。しかし、それ以上に大切な会があると私は思う。
平気で自分の親の悪口を言い合える会である。普通の人々には絶対に分からない仲間だけの会が必要である。それは多くの親に愛されなかった人々の心を救うだろう。










「自分だけではない」
「そうか、この人も親の愛を知らないのか。それでも、今では幸福に生きている」
そう言う会さえあれば恐らく、大犯罪の半分は抑えられるのではないだろうか。私の手記がきっかけになって、そういう会が出来ることを心から祈るものである。但し、私には無理だ。私は会員になることは出来る。しかし、会を統括する力はない。人には誰もが、苦手なものがある。











私には会を統率することは出来ない。ガンの会であるアスカの会でも私は会員になり、会費を払っていた。しかし、会を統率することは出来なかったし、私には今も絶対に出来ない。
しかし、きっかけを開くことだけは出来ると思う。この手記がそのきっかけになってくれることを心から願う。









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